■レビューと批評■
映画のレビューや批評を基本的に読みません。以前違和感を覚えることがあったから。
決して嫌いとかではなく、意味が無いと思っている訳でもなく、トークイベントなどには足を運んだりします。でもそれはあくまで「この映画の批評が知りたい」からではなく「この人がどう観たか知りたい」からであって、批評家さんに興味が向けられています。
あの時の他愛もない違和感をきっかけに、今まで無関係だったんだ、きっと。不幸なことです。
この際はっきりさせたい( ∩ ˙-˙ )=͟͟͞͞⊃
映画をみるとは、語るとはなんぞや?!(わたしにとって)
単純にみて気軽に喋る気にはどうしてもなれない。何故かは知らないけれど、私にとって映画という芸術は大きすぎる。適当に話すくらいなら、話しを逸らした方が、みるより鑑ない方が気持ちが落ち着く。小さい頃からそうだった。何故かは知らない。
まず、批評するのかレビューするのか?
批評とレビューの違いは辞書で調べるなどして理解しました。批評の場合は正しいか間違ってるか、善か悪か、そういうベクトルを織り交ぜなくてはならないようです。となれば、わたしは批評だって恐れずにしてゆきたい。
ただ、そこにはたくさんの注意すべき点があって、例えば、わたしはあまり映画史的視点は持ち込まないようにしている。ひとつの作品と一対一で向き合っていたいから。作品の向こう側には監督がいて、その人の芸術(人生)が映される時、果たして、映画史的位置付けとはどれほどの意味をなすのか。監督がどの人から影響を受けたとか、オマージュがあるとかは多分に意思が働いているので重要だが、それはまた別として。
我思ふ。映画をみるとは偉大な人類という親友と語り合うことであり、批評とは親友の語り尽くした後に、果たして自分になにが言えるのかということです。
つまり君が指すこととはこういうことだよね?と、いったん噛み砕くも良いでしょう。(場合によっては野暮ですが)
語ってくれたことに対し敬意と感謝を伝えるも良し、そのおかげで自分がどう感動し、なにを学んだか伝えるも良し、
しかし、さらにそれに対し、自分も語れることがあれば最高である。それは議論であり、また何かを生み出せるから。
批評の領域というのは、きっとそういうことなんだろうなぁ。
恐れずに批評をしてゆきたい、と書いたけど、この書き方は誤解を生むかもしれない。
親友が語り尽くした後、それを聞いて自分がなにかを語ろうとする。そこに善悪や正否を含めないことなどできるのだろうか。という気持ちで書いた。
自分の人生を捧げる気持ちで語るとき、覚悟や思いやりをもって言葉を発するとき、自分なりに生きるために選択してきた正や善から離れていることなど無理ではないだろうか。
つまりレビューとは、
つまり君が指すこととはこういうことだよね?と、いったん噛み砕いたり、
語ってくれたことに対し敬意と感謝を伝えたり、
そのおかげで自分がどう感動し、
なにを学んだか伝えたり
することで、批評とは
新しくなにかを生むように、
自分も語ること
なのだ!( ∩ ˙-˙ )=͟͟͞͞⊃
きっとそうだ!!
だから私は批評をしたい。
レビューで止まりたくない!
批評をしたい。
覚悟と思いやりをもって
作品と向き合っていたい。
しかし現実的にとても
ハードルが高い。
高い…
以上( ∩ ˙-˙ )=͟͟͞͞⊃